2月最期の週は、五寒二温といった感じだったのが、3月に入って三寒四温の割合で気候が移っていった。既に啓蟄も過ぎ、山の生命は動き出そうとしている。といっても、山の景色は木の芽どきには未だ遠く、冬枯れの景色が広がっているが、これからキブシやらコブシやらフサザクラやら、次々と新芽や花を出して来るはずだ。梅は今が盛りといったところ。
また3月11日がやってくる。今回は10年の節目に当たる。あの日から何が変わったのか。私自身はと言うと、私自身や私の家族や知人に直接の被災者は無く、災害そのものからは、それほど影響を受けずに済んだ人間だ。働き方や生き方についても、それほど変化は無かったし。
ただ、その後の日本は、毎年のように大小様々な災害を受け続けた。九州や北海道で大きな地震があったし、風水害に関しては毎年の様に、日本のどこかで、これまで経験しなかったような被害を与えている。一昨年は藤野も被災地になった。
この10年間の災害の蓄積は、私自身の心にも影響を与えたと思う。自分の生活が一変してしまうような事件は、いつでも起こりうるな、という気持ちはすっかり染み付いた。
世の中全体では何が変わったかなぁと思うと、月並みな意見だけど、原発の凋落があるなと思う。まあ原発自身、地震の多い土地柄には不向きな手段なのは明白なんだけど、太陽電池パネルが普及して、いつしか日本の発電量のけっこうな割合を占めるようになっていた。かつては「自然エネルギーなんかで日本のエネルギーをまかなえるものか」と主張する人も多かったが、既成事実は強いからねえ。
その反面、山林を破壊して巨大な太陽電池発電所を作ってしまおうと言う動きもあって、「ホントにエコなのか?」、と社会問題にもなった。まあ何事にも行き過ぎや暴走もある。太陽電池以外の自然エネルギーに関しても、これから試行錯誤を繰り返しながら、徐々に拡大していくのだろう。
エネルギーが一極集中から分散型に移行してくのと平行して、人の生き方も分散型に移行していく。まあ、まさか10年目に疫病が発生して、強制的に分散型の生き方が加速するとは想像もしてなかったけどね。
あの3月11日以降、世界はあの手この手で人々に揺さぶりをかけ、これからの世の中の方向性を変えていった。
災害そのものは悲劇だし、悼むべきものだし、災害を起こしにくい世の中へと変えていく努力を続けていくべきものだ。災害が不幸である事は間違いない。
ただこれは、非常に誤解を招きやすく、表現に気をつけなければならないが、この10年にわたる災害を始めとした様々な揺さぶりは、固く凍り付いた冬の様に変化の無かった世の中に、新しい春を招いている・・・という表現は、やはり不謹慎だろうな。
新しい生き方、考え方、暮らし方、働き方、テクノロジーの在り方が次々と押し寄せ、これまで新しい事が出来なかった世の中に解体の機運が生まれ、じゃああれをやってみよう、これもやってみよう、という人々が動き始める。これはやはり、冬から春への変化に似ていると思う。
一つ気をつけておきたいのは、こういった時代の変化の時、時代の変化を先導する人間が正しくて善であり、時代の変化に逆行し、時代の変化に抵抗しようとする人間は間違っていて悪であり、馬鹿にしても糾弾してもかまわない・・・とい態度をとりがちだと言う事。
本当に世の中を変えたければ、自分とは立場も考え方も異なる人々も(正反対の人々も)、同時に幸福にしていこうと考えられる人でないと、難しいと思う。
これまでにも、いろんな人々が変革者として登場して来たけれど、多くの場合、自分とは考え方や立場が異なる人を、悪として糾弾し、馬鹿にして冷笑し、魔女狩りの対象にしようとした。こういうやり方、最初の出発時の勢いはいいのだけど、たいてい持続力がなく、いつしか雲散霧消して立ち消えになっていく。
たぶん、本当に世の中を変えていく流れを作るのは、自分とは立場や考え方が異なる人々を、悪として魔女狩りにするような人々ではない。その辺りをわきまえた人々も、これから出て来るだろう。
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