2021年 1月17日

 この週の火曜日、雪が降るのではないかという予報が出た。まあ降る事は降ったけど、牧馬ではかすかに地面を雪が覆ったかな、といったところで終わった。豪雪に悩む雪国には申し訳ないような降雪だった。雪が降る前の日に、太陽の周りに光が囲む現象があった。幻日と言うらしい。上空に雪を降らせる雲が来たので、こんな現象が起きたのかな。

 あまり降らなかった雪の後は、少し暖かめの天気が続いた。この冬はいかにも冬らしい、厳しい寒さが途切れずに続いたので、少しほっとしている。まあまた冬将軍が来るかもしれないけれど。ついこの間までは、夕方の5時を過ぎればもう夜だったのが、このごろはだいぶ明るさを留める様になった。

 前回の日記で、この世に悪徳がはびこる理由として「旅の恥はかきすて」という気持ちについて書いた。小さな村の村人は、その村に住むお互いの人柄や、過去にどんなことをしてきたかも知悉しているし、その村で悪事を働くと、それ以後、長年に渡って「あいつは悪事を働いた」と言われ続け、警戒され続ける。こんな村だったら、悪事を働くのにも、心にブレーキがかかる。

 しかしこれが「旅人」の立場になると、村で悪事を働いても、村人がそれに気づく前に他の村に逃げてしまえばいいと考えることもできる。悪事に対する心のブレーキが弱くなる。

 ただこの考え、実際はもっと複雑だ。ここではまるで旅人を悪人として決めつけているようだけど、実際には、村人と旅人は、お互いがお互いを必要としている関係で、どちらか一方だけが存在すればいいという物ではない。

 例えば、一つの村で、過去に何らかの問題があって、それを解決する為の手法を編み出し、先祖代々、その手法を守り続けているとする。あまりにも長い時間をかけて、その手法を続けて来たので、もはやその手法を行う事が儀式となり文化となり、村人の中には、なんの為にその儀式をしているのか理解していない人まで現れて来る。

 そんな時、ふらっとその村に立ち寄った旅人がその儀式を見て、「なにもその問題を解決するのに、そんな儀式をしなくてもいいのではないか。時代は進んでいるし、もっと簡単で確実な手法なら、いくらでも開発されているよ」と声をかける。

 閉鎖的な村では、その村が世界の全てであり、村人は、その村が行っている事が適切なのか間違った方向に進んでいるのか、客観的に考える事ができない。旅人は様々な世界を知っているので、その村で行われている事を、他の世界の事柄と比較して、相対的に客観的に見られる視点を持つ。

 村は、あまりにも閉鎖的になると、自分達のしている事が正しいのか間違っているのか判断が出来なくなって腐敗が進むが、旅人は、そんな村に新しい光を当て、風通しを良くする役割を担う。悪事を働く旅人は論外だが、基本、旅人は、閉鎖的で沈滞した村に、新しい視点と文化と、新しい生き方を伝え、村の活性化に一役かっていた。

 さてここまで、「旅人」を人として書いてきたけれど、「旅人」の役割を演じて来たのは人だけではない。例えば、村人が自家用車を持ち始めた時、村人は、もはや小さな村で、同じ村人とだけ顔を合わせるだけの生き方はしなくなる。自分の村以外の世界を日常的に触れ、新しい人々とも接する機会を持つ。自家用車は、村人を旅人に変える力を持っていた。

 同様に、今は通信技術の発達が、より広範な世界を知る機会を作り、より後半な人付き合いの機会を作った。これでは、かつてあったような因習にまみれたドロドロした村社会などといったものは、存在できなくなるのではないかと思う。

 その事自体は悪くはない。ただ、旅人の存在しない村が腐敗に行き着くのと同様、村人が存在しない、旅人だけの世界というのも、問題があるだろう。その問題の一つが、前回から書いている悪徳の横行だと私は考えている。

 おそらく、インターネットの時代ならではの、「村」の在り方が、今後出て来ると思う。と言うより、実は既に出来ているのではないか。

 これだけ情報化が進んだ時代なのだから、あの人が過去にどういう言動をして、どのような悪行や善行をして来たか、誰の目にも判ってしまうような仕組みだって、無いとは限らない。これは、形を変えた、新しい村の姿かもしれない。

 これはこれで、なかなか怖い世の中のような気もする。これから初対面の人と会うに際して、事前にコンピューターにその人の性格を聞いてみたら、「この人は心の明るく健全な気持ちの良い人柄です」とか、「この人は陰険な人柄です」とか教えてくれるような社会。

 私は大丈夫だろうか。

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