この一週間は寒さもそれほど厳しくなく、穏やかな日々が続いた。もっとも、これから次の週には冬将軍が来るとか。前回の冬は、雪もあまり降らない暖冬だったが、今回はどうなんだろう。
あいかわらず道志川沿いのキャンプ場は賑わっている。一昔前は、冬のキャンプ場なんて開店休業状態だったけどな。それがまあ、こんな寒い中、多くの人たちが川岸でキャンプを楽しんでいる。このキャンプの流行、一時の流行で終わるのか、それとも新しい文化になるのか。個人的には後者になる事を、勿論望んでいますよ。まあ以前のような、誰もいないガランとした冬の川岸も好きでしたけどね。
新型肺炎。これまで、知人の知人くらいなら僅かに感染者がいたが、最近、ついに知人にも感染者が出た。幸い、重症化はしていない。やはり、じわじわと感染が拡大しているようで、この年末は、いろいろと慌ただしくなりそうだ。これが更に悪化して非常事態宣言とかになると、慌ただしいというよりも、世の中が停止して一気にヒマになるのだけど。
疫病のために、町中では、マスクをするのが日常になっている。こんな日常が、どのくらい続くのだろうか。
この「マスクをする日常」という事について、自分自身、いろいろ考えた。また、いろいろな事を言う人もいる。時々見かける意見に、「ウイルスはマスクなんか通過しちゃうんだから、マスクなんて付ける意味は無い」というものがある。この意見にはこの意見なりの科学的な根拠があるのだろう。
ただ、この事について考えてみて、私としては、やはりマスクを付ける日常を選ぶ事にした。まあたいして深い思索や理由があるわけではないけれど。
まず第一に、マスクはウイルスの拡散防止に効果があるのかないのかについて。私は、「無い」とは断定しない事にした。感染拡大防止にマスクが与える影響は、何パーセント程度なのだろう。30%なのか、3%なのか、0.3%なのか。このあたりの研究は、まだ成熟していないように見える。全然効かないという学説もあれば、少しは効果があるという学説もあるようだ。
私が、「効果は無い」と断定はしない理由は、マスクを付ける生活というのは、どうしても、これまで盛んに人前で近接してベラベラとしゃべる暮らし方に、ブレーキをかけるものであるのは確かだからだ。口数も、自然、減るに違いない。これだけでも効果はあるだろう。
思う存分、おしゃべりをしたい人には窮屈な世の中かもしれないが、しばらくは、このようなブレーキを効かせた生活習慣が必要になるのではないか。
私が、マスクをする日常を肯定する第二の理由は、弱者に対する心がけの問題がある。感染したからと言って、重症化するのはごく僅かな割合だと言われているが、身体的に弱い人や高齢者には、重症化する危険性は高くなる。そのような人たちの視点から見れば、マスクをせずにベラベラしゃべる人が近くに来ると、まるで刃物を振り回している人が近づいているような印象を受けるのではないか。「あんたは体力に自信があるかもしれないが、こっちは気が気じゃない」と。
私は、そんな方々に対して、「どうせマスクなんて、してもしなくても同じだから心配するな」とは言えない。たとえ、私自身が、「マスクは効果が無い」という考え方の持ち主であっても、相手をいたずらに不安にさせたくない。
ただでさえ神経過敏になっている高齢者や身体的弱者に対して、「科学的に、マスクなんてしてもしなくても同じなんだから気にするな」と言うのは、人としての優しさと言う点において、どうなんだろう。
仮に、「科学的にマスクなんて効果は無い」と信じている人であっても、「まあ私はマスクに関しては懐疑派だけど、弱者を無用にハラハラさせたくないから、ここはつきあうよ」と言ってくれる人が、人としての優しさを併せ持った、マスクの懐疑派なんじゃなかろうか。
なんかこれと似た事が、過去にあったなァと思っていた。それが最近、ようやく思い出せた。
携帯電話が普及し始めた頃、電車など、人々が密集する所で携帯電話を使うと、携帯電話から発する電磁波が、心臓にペースメーカーを付けている人に悪影響を与える、という話があった。この時にも、携帯電話程度の電磁波でペースメーカーに誤作動を与えるはずが無い、という意見が多く出た記憶がある。
しかし、誤作動を起こす可能性が1万分の1かもしれないし、10万分の1かもしれないし、100万分の1かもしれないが、「とりあえず、安心できる状態になるまで、携帯電話の使用は控えるよ」と言うのが、人としての優しさではなかろうか。
弱者に優しい世の中というのは、弱者と歩調を合わせる世の中でもある。そこには、「なんで俺がこんな我慢をしなくちゃならないんだ」という不満も出て来る。そこを、ここは弱者の歩調と「つきあうよ」と言ってくれる優しさが、人に、どの程度あるのかどうか。
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