2020年 11月22日

 この週は、まるで9月頃に戻ったような暖かい陽気になった。これまで寝るときは冬向きの布団を使ってたけど、急遽、秋向きに戻したくらい。そんな暖かさも土曜日の夜からは下がり始め、またこの季節らしい気候に戻りつつある。

 一方、落葉の勢いは多少の暖かさとは関係なく勢いを増し、山の木々はどんどん裸になっていく。相模湖の湖面に沢山の枯れ葉が浮かんでいた。道路脇に溜まる落ち葉も大量になり、畑の堆肥にするために、そんな落ち葉を袋に詰め込んでいる人々の姿を見かける。

 連休とあって、相変わらず行楽の車やバイクが多い。道志川沿いのキャンプ場も満員だった。晴天に恵まれ、程よく暖かかったのも幸いしたのだろう。そんな中、新型肺炎の感染者がいよいよ増加してきたのを受けて、例の「旅行に行け」キャンペーンを見直すという話が出た。もっと早く出していれば恥もかかなくて済んだものをと思うけど、当の旅行業界の方々はどんな気持ちだったのかな。案外、「旅行業界を支援するための政策には感謝するけれど、これで感染拡大に繋がってしまったら旅行業界が国民全体の敵になりかねない。どーぞ遠慮なくキャンペーンを早急に中止してくれ。」という気持ちの所も、多かったんじゃなかろうか。

 よかれと思って行っている政策も、裏目に出て反感と軽蔑しか得られないとなったら、やってる方も気力が削がれるばかりだろう。

 10月25日の日記で、知恵の一つとして「止まるべき時には止まり、動くべき時に動く」という事を書いたけど、これは「逃げるべき時に逃げる」という表現にも展開できる。どうも、東日本大震災の頃から、「逃げるべき時に逃げる」という決断で誤ると、そのまま生死に関わるような事件が増えて来た気がする。今回の新型肺炎も、もろにその一つだろう。

 人は、なかなか逃げるべき時に逃げられない。「逃げる」という行為には、どうしても慣れ親しんだ日常から飛び出す事を意味し、それだけでも高いハードルを感じさせる。いままでやってきた安定した仕事があるから、これまで続けてきた付き合いがあるから、今までやり続けてきた慣習に愛着があるから、そこから飛び出す事が出来ない。

 それに、周囲との軋轢だって当然ある。自分が「逃げるべきだ」と思っても、周囲が「この程度ならまだ逃げる必要はない」と考えてしまえば、自分は孤立し、周囲からの反感を買う。逃げるというのは、けっこうイバラの道だ。

 でもねえ、これから冬が本格化してくるにつれ、また「逃げるべきか否か」の踏み絵を試される事が増えるんじゃないかなぁ。例えば、疫病の流行が拡大しても、満員電車に乗るか否か、とか。

 「逃げる」という事について、いつも思い出すのが聖書に出て来るソドムの滅亡の話だ。悪徳の町であるソドムが神の怒りに触れて滅ぼされる事が決まるが、町の住人であるロトとその家族は悪徳に染まってない人間として許され、滅ぼされる前にソドムから逃げる様に言われる。そこで、こうも忠告される。「うしろを振り返って見てはならない」

 創世記の19章には、ロト自身、ソドムの町から逃げる事に迷いがある事が伺える。またロトには二人の娘がいて、同じ町に住む娘の婚約者にも逃げる様に勧めたが、彼らは本気にしなかった。ロトとその家族が町から逃れ、神は実行し町は滅ぼされてしまう。ただロトの妻は後ろを振り返ってしまったので、塩の柱になってしまった。

 何度このエピソードを読んでも、一番私が怖いと思うのは、滅ぼされた町の事ではなく、最期につい振り返ってしまって、塩の柱になってしまったロトの妻の話だ。

 いったん逃げると決めたら、迷いや未練は捨てる覚悟をすること。その覚悟がないと、ギリギリの所で逃げるのを失敗し、命を落としてしまう。

 この事を思うにつけ、「逃げる」なんて言うと、いかにも安直で卑怯な人間のする行為に聞こえるが、実際はよほどの人格者でないと「逃げる」という事を成功させるのは難しいんじゃないかとも思う。

 逃げるには、決断力もいれば勇気も必要だろう。迷いに流されない、ぶれない心も重要になる。ロトとその家族は、神によって救われたとも言えるが、別の見方をすれば、神によって試練を与えられていたとも言える。その人が、逃げ切るに値する人間であったかどうか。

 どうなんだろう、これからの冬。そんな試練が、多いんじゃなかろうか。もちろん杞憂ですめば、万々歳なんだけど。

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