2020年 11月15日

 心地よい秋の日が続く。桜は既に葉を落とし、今はケヤキの落葉が進んでいる。コナラやクヌギは色づき始めた所。風が吹けば枯れ葉が雪の様に降り、地表を黄金色で覆う。少し冷え込みは緩んでいるが、いずれまた寒気が北から降りてくるだろう。

 相変わらず土日は行楽の車やバイク、自転車がにぎやかだが、北海道以外でも、全国的に新型肺炎が流行り始めたそうだね。そろそろまた、不要不急の外出は控えてくれと言い始めるかなぁと思ったら、まだしばらく「旅行に行け」キャンペーンはやめないそうだ。まるで気違いの発言だけど、支持者の事を考えると、政治家としてそんな態度を取らざるを得ないんだろうな。

 ただ思うのだけど、そろそろ21世紀が目指すべき目標として、経済が停止しても生存が困らないセーフティーネットの構築は、あるのだろう。今の世の中、ほとんど全てのものが経済原理で動かされていて、経済活動が停止したら生存すらままならなくなってしまう。

 経済が何らかの理由で停止しても、衣食住には困らず、教育や医療も受けられるような状態になれば、たとえ疫病が流行しても「それでも観光業を救うために旅行をしろ」とは、言わなくてもすむようになる。

 子供が将来なにを目指そうとするかも、「あの職業が儲かるからあれにしなさい」と言われるし、科学的な研究をするのでも、「この分野を研究すれば金になるからこれを研究しなさい」という力が働く。人は、生まれてから死ぬまで、金儲けをして利益をあげないとならないみたいだ。

 しかし、考えてみれば、私たちが生きて行く上で、金儲けよりも上位の価値を認めなければならない事柄もある。例えば司法なんかその一つだろう。残念ながら、政治的理由、経済的理由でねじ曲げられる事が全くないとは言い切れない現状ではあるが、「○○は正しいか否か」を判決するにあたり、「正しい」と言った方が儲かりそうだから正しいと言う、なんて態度をとったら、普通の人間なら恥を感じるものだ。司法とは経済的欲望に支配されるものではなく、「正義」を目指す物だと言う建前は捨てられないだろう。

 人間は長い時間をかけて、正しい生き方とは何かを探求して来た。ある時は農業を作り、鉄器などの道具を作り、町を作った。法律を作り、宗教を作った。政治体制を変革し、科学を発展させた。その間、動物的欲望に流されて悲惨な事態を招いた歴史も平行してあった。

 そして今、どういうわけか、経済を停止しかねない疫病に人間は直面している。これに対する、正しい解決策、進化の道とは、どんなものか。

 こうして考えてみると、人間はつねに、その時代その時代で、いかにもその時代にふさわしい試練を受けているのだろう。一つその時代の試練を克服したら、次の試練がやってくる。狩猟採取では食料の供給が不安定だと困ったら、なんとか農業を発明し、そしたら食料の備蓄が可能になり、大きな町が作れる様になり、そしたら人々をまとめるのに政治が必要になり・・・。

 いずれ新型肺炎を克服できたらできたで、次の試練があるのだろうな。それでも、常に変わらないのは、試練を克服するには「正しさ」が必要になるという事だ。

 ここで、「欲望」と「正しさ」の対立が生まれて来る。自分の欲望をそのまま追求する事が、そのまま「正しさ」と一致する事も確かにある。自分の好きな事をそのまま職業にして成功する例なんか、まさにそうだろう。しかし欲望は、決して正しさの方向だけに向くものではない。酷い場合、他人を犠牲にして自分の利益を追求しようとする欲望だって生まれて来る。このような欲望は、最終的に、味方よりも敵の数を増やしてしまい、自滅に至るのが普通だが。

 私は別に、欲望を悪だとは言わない。善にも悪にも移りうるものだと思っている。そして、欲望を悪の方向に流されず、善の領域に留めるための工夫は、「謙虚である事」だと考えている。

 人間界をとりまくこの自然界は、人間の、謙虚な欲望は助け、傲慢な欲望は滅ぼす方向に働く。謙虚さは、絶えず自分自身に、果たして自分は正しいのだろうか、という内省を求めるからだろう。

 自分の考える正しさに対して、常に懐疑的に内省を繰り返している人なら、正しい道から踏み外す事はあるまい。

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