ここ数日、急に暖かくなった。薪作り作業でチェーンソーを使ったり斧を使ったりしていると、いくら服を脱いでも汗が出てくる。まあ、また寒さが戻って来る時もあるとは思う。夕方の6時でも、ほんのりと明るくなってきた。
この暖かさと連休と言う事もあるのか、道志川沿いのキャンプ場には、敷地に車が半分は埋まるんじゃないかというくらいの客が来ていた。この日記でもしばしば書いてきたけれど、10年前を考えると、いくら連休とはいえ冬のキャンプ場に、こんなに客が来ると言うのは信じられなかった。冬のキャンプ場なんて閑散として、めったに客の姿なんて見せなかったのに。
疫病でキャンプブームがあり、そのブームも下火になったが、静かに冬の河原で焚火をしたりして時間を過ごす人々は、確かに残った。私には、河原で乱痴気騒ぎを楽しむキャンプも嫌いではないが、冬枯れの山の中で、静かに過ごすキャンプの在り方には、どこか人として成熟した趣味を感じる。
まあ、こんな事を書いているけれど、疫病だって決して過去の事になったわけではない。今だって、どこかの施設では疫病が発生して一週間の業務停止、なんて事だって、ないわけではなかろう。
疫病に限らず、インフルエンザに限らず、冬のさなかに急に暖かくなると、それはそれで体の調子が狂う。用心に越したことはない。
ここで、私が今の状況をどう見ているか、書いてみたい。選挙で勝ったとか負けたとか、それも確かに大事な事だけど、もっと、数十年とか、100年とかいった単位で考えてみて、浮かんでくることもあると思う。
日本は確かに急成長した。明治維新以来、外国に後れを取りまいと情熱を注いできたし、戦後の焼け野原からの復興も遂げた。そんな情熱の源泉となったのは、やはり豊かで快適な暮らしを夢見ていたからだろう。
終戦直後でも、日本人の半分は農民だった。そんな人々が、蛇口をひねれば水が出て、スイッチを入れれば灯りが付き、車で行きたいところに自由に行けて、夏は涼しく冬は暖かい暮らしが出来る。こんな夢があれば、それも実現可能だと信じることが出来れば、誰だって情熱を注いで努力を重ねるだろう。
結果、豊かさを得たわけだけど、そこで目標を失ってしまう。すると、やる事といえば現状維持だけになってしまう。何かに挑戦しようとすれば、そこには失敗の危険がある。野球の4割打者だって、6割は失敗と言う事だろう。
「すでに成功して繁栄を享受しているのに、何を今さら失敗の危険を抱えようとする?」
そんな感情が支配的になれば、新しい事は何もしないで現状維持に努める事が、人々にとっての生き方になる。悪い意味での保守的な気風は、こんな心理から芽生えてきたのだろう。
しかし、新しい挑戦をしない間、日本が「後進国」と呼んでいた国々だって、豊かさと繁栄を目指して情熱を注いで努力を続ける。いつかは日本に追い付き、追い越していく。日本の地盤沈下は進んでいく。そこに人口減少社会の弊害も顕在化してくる。日本は既にピークを過ぎ、坂道を下り落ちているが、それに対する有効な手は打てていない。
以上が、私なりの現状に対する認識です。
さて、こんな状態で「保守」なんて言ってられるかどうか。
かつては羽振りの良かった会社が落ちぶれようとしているとする。まあ普通だったら、「これまで培った技術やノウハウを生かして、新しい分野に打って出よう」と考えるだろう。こんな状況で「保守」なんて言ったら、それは「このまま何もせんでいい」と言ってるようなもので、未来の破滅が約束されてしまう。
私には、20年前、いや30年前くらいから、「保守」という言葉に輝きを失っていた。それは、私がゴリゴリの革新というわけでもなく、私が2~30年も前から衰退していく未来を予見できる鋭敏な目を持っていたわけでもない。
それは、私が山里に住んでいたからだ。
子供が減り、かつて大勢の子供たちがいた小学校は廃校になり、若者が減り、仕事が減り、お年寄りは寿命で減っていく。空き家が目立ち始め、その次には廃墟が目立ち始める。かつての故郷は溶けるように消えていく。
「衰退していく未来」は、山里では2~30年前から、進行形の現実だった。ここで座して死を待つよりは、何か新しい打開策は無いものか、と考えざるを得なくなる。
目標の喪失が衰退のきっかけなら、新しい目標は何か、と言う話にもなってくる。私の印象では、どの政党も、それを打ち出せていない点では、同列に見える。
次あたりで、私なりに思いついた、次の目標について書いてみたい。それが、「ブラックか、ホワイトか」という問いとも繋がってきます。
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