2026年 1月18日

 ここ数日、少し寒さが緩んでいたが、また次の週から厳しい寒さが戻って来るらしい。上野原では未だ山火事が収まってはいないようだが、藤野から山火事の現場を見てみると、以前よりは山から立ち昇る煙の量は減っているようだ。まあ、また強風が吹き荒れるようになると、どうなるか分からないが。

 ここ数年、日本での在外の対策に関して、認識を改めないといけないんじゃないかと思う事が増えた。水害は規模を大きくして、毎年のように各地で大きな被害を出すようになってきたし、夏の暑さだって災害級だろう。今までの対応策では収拾が困難になるか、収拾できるまでに大きな時間がかかるようになってきた。それらの災害の中に、山火事も含まれるようになったのかもしれない。

 以前、岡山や岩手で大規模な山火事があったのは記憶に新しいし、最近では大分でも広範囲が焼ける火災があった。こうなってくると、今までの山火事や大規模な火災に対応してきた設備や技術を越えた、一回り高い能力を持ったものを準備する段階に来ているのではないか。

 昨年の熊騒動だってそうだけど、気候変動が原因だけではないとは思うが、今までの対応能力では事態の収拾すら困難で、被害を生み続けるような事例が増えていると私には感じる。既存の対応策では難しいのなら、それを超える対応策を生み出すしかない。

 昨年からこの日記で、しばらくは、物事の考え方の基準として、「それはブラックかホワイトか」を考えるようにしていると書いた。例えば、「正義」だって、ブラックな正義とホワイトな正義があるのではないか、と。

 自分の考え方こそが正義であり、他の人間の考えは愚かな蒙昧に過ぎない、と罵倒したり冷笑したりするような正義もある。仮に、その人の主張が実際に正義だったとしても、果たしてそれは、ホワイトな正義と言えるのかどうか。

 もしかして、単に自分よりも程度の低い人間を見つけては、そういった人々を笑いものにして、優越感に浸りたいだけの行為だとしたら、とてもそれはホワイトな正義とは言えない。

 まあ上記は極端な例だけど、こんな実例を思い出す。疫病が流行った頃、人々が一斉にマスクをするようになった。それに対して、マスクが防げる粒子の大きさと、ウイルスの大きさを比較したら、マスクの網目なんて大きすぎて、ウイルスを防ぐ意味をなさない、という意見があった。それも、科学的には正しい見解かもしれない。

 でもマスクをした状態なら、べらべらと唾をまき散らすようなしゃべり方はしなくなるし、余計なおしゃべりもしない方向に向かうだろう。くしゃみをしても、あまり飛沫をまき散らさなくなるかもしれない。

 マスクをすれば100パーセント感染を抑制できるとは思えないが、数パーセントは、感染を抑止する一助にはなるかもしれない。

 実は私自身、あまり、マスクに関しては効果を期待していない所があった。それよりは、家から出ないとか、帰宅したら顔や手を洗う方が効果的なんじゃないかと思ってたから。

 でも私がそんな時、マスクをしていた理由は、周囲の人々に不安を与えたくないという気持ちだったからだった、と今になると思い出す。世の中には、お年寄りのような体力が衰えた人だっているし、持病のある人もいる。一回の感染で生死の問題に発展しかねない境遇の人もいるわけで、そんな人々にとっては、常に死の恐怖に曝されているといえる。

 そんな人を前にして、「マスクなんて意味はない」という持論があるとはいえ、そして、仮にその持論が正しいとしても、疫病の流行で死の恐怖におびえている人々にとってみれば、マスクをせずにべらべらしゃべる人が目の前にいたら、刃物を顔面の前にいたずら半分にちらつかせて脅かしているように感じないか。

 正義とか正しさとか審理とか、いろいろ言い分はあるかと思うけれど、何か世の中に問題が発生した時、自分よりも弱い立場の人の気持ちを配慮した上で、正義と言うものをかんがえるのが理想だろう。ホワイトな正義というのは、そういうものではないかと思う。

 正義というのは、「私が正義で、お前は間違っている」と裁きを下すものなのだろうか。

 お互いに問題を抱え、不安に襲われている時に、一緒に寄り添うような優しさが備わったうえで、一緒に解決へと歩みを進めていく姿勢が、正義なのではないかと思う。

 自分が人に助言を与える時、その助言は正義であってほしいと願っているが、それ以上に、その助言によって、その人が幸せになってほしいと願っている。正義とは、そんな環境にあって、初めて力を持つのではないか。

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