2020年 10月18日

 変わりやすい秋の天気が続く。この一週間、晴れと曇りと雨の日が等量ずつ過ぎていく。ただ、いわゆる秋らしい青く澄んだ青空というのは、まだ一度も見ていない気がする。

 9月20日の日記で、火の見櫓が解体された事を書いたけれど、今度は古い消防小屋が解体された。一日で一気に解体するかと思ったら、数日をかけて丁寧に片付けて綺麗な更地にしていった。これも、篠原の歴史の一こまになるのだろう。

 前回、空き家が風雨の浸食によって壊れて自然に帰っていくのも、一つの癒しではないか、といった事を書いたけれど、やはり、だらだらと壊れていくのに任せるのではなく、きちんと自分で解体して更地に戻すのが正しい在り方だろう。町の景観上、安全上、それは間違いなく、全国各地には「この壊れゆく建物を、どうちらたいいんだ」と頭を抱えている所は多い。

鬼怒川温泉 廃墟群

https://www.youtube.com/watch?v=DBVTwL185u0

 個人的には、役目が終わった建物をきちんと解体する事は、景観や安全の問題以外にも、必要な理由があると思っている。

 よく、利用者の減少で赤字続きの鉄道が廃止される時、無くなる前に記念に乗っておこうと、廃止まぎわに沢山のお客が押し寄せて来る。こんな光景を見るたび、「いつもこれだけの客が乗っていれば廃止なんてされずにすんだのに」と皮肉の一つでも言いたくなる気持ちも判る。ただ私は、最期の時を、明るく盛大に、「今までありがとう」と幸せな気分で演出するというのにも意味があると考えている。終わりを盛大に明るく締めると、誰にとっても、「ああ、終わったんだな」と気持ちが確定するはずだ。この気持ちの動きは、次の行動に移る時の、迷いが無くなる。

 小さな町工場が閉鎖しても、そのままの雰囲気が続くと、終わったはずの工場だけど、今でも時々、幽霊のような工員が訪れて、ひそやかに作業でもしているかのような錯覚を覚える事がある。この工場は終わったのか終わっていないのか、死んだのか生きているのか。こういった、生死の境が不明な存在があると、周囲に悪い「気」のようなものを漂わせるのではないか・・・というのは、もはやオカルトめいた話になってしまうが。

 廃墟と幽霊話がセットになって語られるのも、理由がある事だろう。廃墟と幽霊って、その存在の形が似てるのだ。

 葬式に限らず、儀式というのは心さえこもっていれば簡素で良い、という考え方がある。私も賛成だ。でも、盛大な葬式にも意味はあるのだろう。故人の遺徳を讃えるという意味もあれば、大勢の人間によって「この人は確かに死んだんだ」と確認させ、参列者に共通の記憶と認識を宿させる。ここまでされると、「今でもあの人はどこかで生きているんじゃないか」などと思う人はいなくなる。死を受け入れれば、後は残った人々が気持ちを新たにして前向きに生きていくしかない。

 「けじめ」とは、こういう事なのだろう。もっとも、葬儀における「けじめ」とは、「もう迷って出てくるんじゃないぞ」という、死者に対する「封印」の意味の方が、本来は強いかもしれない。

 生きているのか死んでいるのか。生物学的には明確な定義は可能だけれど、組織とか、人間が作った機構とかの「生きているか死んでいるか」を判別する基準となると、なかなか難しい。

 山里には、自治会のような組織の他にも、消防団とか、様々な組織がある。何らかの役割を担いながら機能している物もあれば、既に組織は名前だけの存在になり、せいぜい、組織の組員たちが年に一回、親睦にお茶を飲むだけで終わる・・・というものすらある。こういった、名前はあっても実が無い組織は、既に死んでいると言ってもいいかもしれない。

 企業だったら経営が成り立たなくなったら消えていくしか無いし、NPOや市民団体となると、参加者が共有する目標や情熱が失われていくと、土に帰っていく倒木のように消えていく。生きていく喜びを生み出せなくなった組織は、自然に帰る様に霧消していく。

 木には、芽生えの時があり、伸び盛りの時があり、樹勢の絶頂期もある。そして、勢いを無くして老化を向かえる時が来る。そんな時、樹からいっせいにキノコが生える事がある。樹が伸び盛りの時にはキノコなど寄せ付けなかったが、樹の老化に従って、キノコの餌になって、樹の組織や養分を吸い尽くされてボロボロになっていく。

 古今東西、どこにだってキノコのような人間はいる。しかし、組織が伸び盛りの時は、そんなキノコは寄せ付けないか、ほとんど目立たない。キノコがいっせいに生えだした国というのは、そうとう老化が進んだと言う事だろう。これは、民衆全体が、一度「国の死」を受け入れて、次の夢や目標を見つけて動き始めるまで続く。

 その時が、まだだいぶ先なのか、意外に近いのかは判らない。

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